#1【こころ/夏目漱石】書き写し、始めてみました!
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こんにちは、ばうぞーです。
今回から、夏目漱石の超有名小説「こころ」を少しずつ書き写していき、感じたことを書いていきたいと思います。
いつまでかかるかわかりませんが、できれば毎日更新していきたいと思います。
きっかけはこの本
なぜ「こころ」を書き写そうと思ったのか。
それはこちらの本を読んだことがきっかけです。
若松英輔さんの「『こころ』異聞ー書かれなかった遺言」です。
帯に書かれていますが、さまざまな謎が「こころ」にはあるということをこの本を読んで初めて気づきました。
言われてみれば、という謎がたくさんあって最初から最後までワクワクできた本でした。
読み終わって思いました。
私ももう一度「こころ」を読みたい。
何ならじっくり読んでみたい、と。
そんな中、自分の手で書き写せば何かが見えるのでは?と思い、今回書き写してみようと思ったわけです。
本を読んでも、「面白かった」で終わってしまう私がどこまで感じられるかわかりませんが、楽しんでいきたいと思います!
「常に」呼んでいたことを強調している?
では、早速書いてみました。
今回はこの部分です。
私はその人を常に先生と呼んでいた。だから此処でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」と云いたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。余所々々しい頭文字などはとても使う気にならない。
「『こころ』異聞」では、「私」は誰かに向けてこれを書いているのではないか、とのことでした。
それを踏まえて読むと、気になったのが冒頭のこの言葉。
「常に」
仮に「常に」が無くても問題はないはずなのですが、ある。
まるで誰かに向けて強調しているような気がします。
また、「常に」があることで、あの時もこの時も先生と呼んでいた、という時間の流れを感じます。
「私」が「先生」との時間を振り返っているような気がします。
でも、なぜ振り返っているのか?
何かのきっかけがなければ、誰かと過ごした時間を最初から振り返ることはあまりないでしょうし、それを書くことはよっぽどのことではないかと思われます。
となると、「『こころ』異聞」で書かれていたように「私」はこの後・・・?
書くと気になる部分が出てくる
まだ一回目ですが、やはり、読むのと書くのとでは感じる内容や気になる部分が違ってくる気がしました。
読んだときは何も感じなかったことが、書いてみるとなぜこの言葉がここに?という疑問が出てきて、とても面白かったです。
作者の意図と全く異なった考えや疑問が出てくるかもしれませんが、のんびり楽しく進めていきたいと思います。
これからお付き合いいただければとても嬉しいです。
それでは、最後まで読んでいただきありがとうございました!